http://www.a-bombsurvivor.com/english_and_me.newversion.html
(注:この一文は2010年10月28日(筆者が満80歳になった日)から3日間かけて書き、当時、編集者の不手際でウェブサイトに掲載したら「文字化け」していたことからPDFに転換して一時期、ウェブサイトに掲載していたシロモノと記憶するものです。本日(2018年3月31日)に編集ソフトをみていて目にとまったシロモノでして、「あれ・・・!? こんなものを書いていたっけ!?」といったのが正直な著者本人の感想です。現在ではご存知のように、日本語版ウェブサイトにも遠慮なく英語を使っている(使わざるを得ない)というのが実態です。そんな折に目にとまった本記事ですので、「旧くて新しい一文」と自賛してのウェブサイトへの掲載・・・ってのが実情です。「日本人の英語下手」がしばしば指摘される実態に鑑み、この拙著一文は満更無意味なものでもないだろうという自負心もあり、かつ、マスメディア取材の記事を多く扱う本ウェブサイトの現状にかんがみ、自作自演のヨシダのウェブサイトに掲載するのも満更、無意味でもないだろう・・・といった心情をもって掲載することを思い立ちました。(2018年3月31日記) 

     英語と私―わが人生に英語が果たしてきている役割りを語る 
わが人生と英語学習が切ってもきれない関係にあり、英語力を語らずしてわが人生の成果もあり得ないとすら考える私です。ふと、気付いたことは、そうしたことを書き遺しておくことにも意義があると思うに至りました。特に現代における日本人の英語力が他国の人たちと比較して劣ることが否定できず、ましてやグロ-バリゼーション時代における現代人としての最小限度のものとしてものであると考えることから、意を決して思いつくままに書きなぐっていくことにしました。推敲課程を得ないまま、思いつくままにといった感じでスタートし、3日間でとりあえず脱稿しました。

日本人の英語力の足りなさと海外進出意欲がオーバーラップされることの珍しくない現代にあって、一部の大手企業では社内公用語化まで進化しています。そんな折、英語学習に対する極端な批判論もチラホラします。ネコも杓子も英語に拘ることはない、立派な日本語がある!といった発言です。くだんの企業における英語公用語化に対する批判すらチラホラです。私はこうした発言を「やっかみ」と断じて憚りません。

妙なことですが、英語を教える立場とか、英語が人生に大きく寄与したと思われるご人物からですら、そんな意見が出ていることです。これって、どういうこと!?と、常日頃から思っていました。ご自分が人もうらやむような英語力を持たれ、かつ英語で人生に大きな得をされたにも関わらず、何故なぜ、人さまには英語学習に非積極的な発言をされるのだろう?・・・と思う一面すら垣間見れます。

小学校における英語教育導入論議に際して、「日本語も未熟な子供に英語を教えるなんてトンデモナイ」という意見すらあります。ドダイ、無茶な発言としか言いようがありません!何時の時点で、母国語の日本語が「完成」されるとおっしゃりたいのでしょうか?外国語とりわけ、可能な限り正しい発音やイントネーションで生きた役に立つ外国語を身につけるのは、幼年時代からに過ぎるものはありません。

日本の大学を卒業した方が、何年間も留学しても、所詮、その方の外国語は日本人特有の訛りと発音の域を脱しません。別段そのこと自体を云々する気は毛頭ないのですが、日本人が英語下手というのは此処、フィリピンに来てよく耳にする言葉ではあります。

対して、幼年期に海外で生活した人は、生きた英語が身についているのです。日系米国人は二世、三世ともなると、口の形までアメリカ人に似てくるのです。つまり、身についた発音を発する口の構造がDNAに変化すら与えてその形を変えるのです。唇が薄くなることを知っています。日本語の母音で終わる発音が語尾がアイウエオと口が自然に開いた状態になるだけに、唇も開いた状態が常です。

対する英語は子音で終わることから、唇はどちらかと言えば、小さく緊張しがちです。こうした言語習慣が唇の構造に微妙な変化を与えると観ます。ともあれ、生きた言語はあたかも母親からの「口うつし」に似たものがあるのです。成人した暁のホンモノの発音会得は従って、簡単にはいきません。

と、まあ、こんな理屈っぽいことはこのくらいにして、英語が如何に大事か、役立つか、もし出来なかったら損をするEtc.といったことを、私のささやかな人生体験を通してご披露させていただきます。私が若い頃からよく言った言葉は、「昔は英語を知っていたら得をする時代だった。しかし、これからは、英語を知らなかったら損をする」ということでした。それを身をもって体験実証したのが私です。

わが人生第1毛作時代の英語

英語を敵国語としてそれを学ぶことを潔しとしない時代で、私は幼年期を迎えました。ところが、敗戦で進駐軍(と当時は呼びました)が日本を占領して入ってきたことから、「英語熱」が盛り上がりました。父が早世したことから、長男の立場にあって、母と弟の三人家族(3人の姉は結婚)の「長男」としての自覚で翌年から14歳の若さで働きはじめ、夜間高校で学びました。むろん、大学進学は断念してのことでした。この辺りは日本人固有の家族主義的思想の持ち主でした。

そうした生活環境の中で、男の意地(?)として胸に刻んだことがありました。「ボクは家庭の都合で大学には行けないが、英語力だけは学卒者には負け力を身につけてみせるゾ〜!少なくとも正しい発音で生きた英語が喋れることにおいては断じてひけはとらないようになってみせるぞ〜!」といったオトコの意地でした。

幸いなことに、母(当時46歳)はハワイ生まれで11歳のときに日本に帰国しただけに、英語発音は本場仕込みでした。戦時中のことでもありましたが、足の不自由な私が母の背中におんぶされて歩くときに、彼女が歩調に合わせて口ずさんだのが「Left, right, left, right!」(左、右)という英語。日本人に苦手のRとLの発音はかくして幼年期から身につけました。

夜間高校に通いながら、当時長姉の婿が原爆直後の建設ブームで多忙な3か所の製材工場の大手企業下請けをしていた関係から、当時から彼が必要性を強く感じていた「帯ノコ目立師」という特殊技術を要する職業への進出を助言しました。その背景には、肢体不自由者の立場にあって、敗戦混乱期で最も急務なことは、「生活力を身につけ、人生を生き抜く自信を身につけること」というのが彼の進言だったのです。現在に至ってわが人生の恩人とする姉婿・義兄でした。後年、その職業でも英語力が物凄い成果を生むのですが後述します。

さて、その職業を当時著名だった人格者であり優秀な職人さんであったある人物のもとで短期間弟子入りして技術を習得しました。私の持ち前の器用さと熱心さもあって、短期間で見事にモノにしたものでした。要した授業料は当時のお金で8千円也。当時の月給は2千円程度でした。ま、この辺りのことは蛇足ですが、ボツボツ英語力が奏功したことに移ります。

ちょうど、前後してのことですが、夜間高校時代の英語を巡る良き想い出話をしておきましょう。当時、たしか毎日新聞主催ではなかったかなと思うのですが、戦後初めてのこととして、「第1回広島県下高校英語弁論大会」が開催されました。「How I’ve fought my way out」(かくして私は逆境を切り抜けた)がタイトルでした。時の広島大学の飯島教授と聖ルカ教会のマクシェリー夫人というお二人が審査委員でした。

開催場所は当時の米軍提供施設「CIE図書館(Civil Information and Education Library)」でした。後述しますが、その図書館でわが人生に大きな転換と成果を与える米書に遭遇したのです。見事に優勝の栄を得たのです!本場英語教育を受けていた女学院高校生でお父さんは牧師という身分の熊谷さんという学生さんは2位でした。今から想うと、淡い青春時代の体験でした。女学院高校の校内のグリーンで語り合った想い出があるのです。

後日知ったことですが、お二人の審査員が一位を巡る審査の論議で白熱したとかでした。マクシェリー夫人が頑として私に軍パイをあげてくれたとかでした。今から考えると、彼女の英語は本場仕込み。対する私のそれは所詮、独学の域を脱しませんでした。中身とそれがもたらした私の情熱に説得力があったものと現在にして想い出すものがあります。ヘレンケラー女史の言葉も引用したものでした。それが縁で、彼女が属する聖ルカ教会の礼拝にも出るようになりました。

授賞式が済んだ直後に私のところへアメリカ人の女性宣教師(アンダーソン女史)が教え子の女学院生さんを連れてきて、Congratulations, Yoshida-san!と言いながら握手をもとめ、彼女を紹介してくれました。村上さんという学生さん。お父さんは当時広島大学の天文学教授で、後年には女学院大学の学長になられた方です。

その彼女はその翌年の大会で優勝しました。私はモデル・スピーカーとして参加したものでした。後年に至って、彼女はボクにとって、ボクの人生にとって、筆舌しがたい大きな影響を与えてくれることになったのです。彼女とのことは、文芸社(東京新宿)が募集し、出版した「初恋、初カレ、初カノジョ」(全369頁)に応募して入選した作品がその青春物語として永遠に残っています。

717名の応募作品中、55作品が入選して単行本で出版されたものですが、私の入選作品は題して「人生の恩人 プラトニックラヴした永遠のカノジョ」でした。その筆者の私が主人公になったのは実に半世紀後のことです。実名入りの私の作品ですが、彼女の実弟で私の弟・祐司と高校生同級生同士であったことから、彼女との英語の手紙のやり取りのメッセンジャーボーイをその二人が演じたものでした。

その彼女の弟さんに原稿を見せ、実名入りの快い諒承も得たものでした。「姉が草葉の陰で喜んでいるでしょう・・・」とも言ってくれました。ちなみに、後年、彼女は米国留学中にアメリカ人と学生結婚をして、一児をもうけながら若くして他界しました。彼女がご主人と広島へ里帰りしたときに、広島駅に出迎えた私を目ざとくみつけた彼女の旦那さんがツカツカと私のほうに歩みよって、ほほ笑みながら私の耳にささやいた言葉が現在でも鮮明です。「I know you used to be my wife’s boy friend!」(家内のボーイフレンドだったこと知ってますよ)と。

英語がとりもった青春時代のひとコマでした。後年は前出の英語が縁で知り合った女学院大学英文科卒業の女性と結婚するまでになりました。しかも、それが縁で、14年間続いた職人自営業に終止符を打って、トラック運送事業経営への人生転換を招来するのですが、後述します。

さて、話を戻してのことですが、わが人生は「第一毛作」と称する職人自営業人生で英語力が果たした事実を強調して記述します。くだんの英語弁論大会が行われたCIA図書館にそれが縁で出入りするようになりました。ある時、何気なく手にした「LUMBER」(材木)と題する部厚い米書がありました。LUMBERは「材木」を意味しますが、製材された材木の意味があります。「製材」という動詞にも使われ、Lumber-millはSawmillと同様に、「製材所」を意味します。

パラパラとめくったページをみて、思わず歓声をあげました。大量の写真が目に飛び込んできたのです。しかも、私の職場でもある米国の製材所における「製材用ノコ目立て室」とそこで活躍している「同業者」の姿でした。当時の日本のこの業界には無かった幾つかの新技術の存在を知ったのです。何度も借り出しを継続して、ページが手垢で黒ずんだものでした。

小躍りした私は、ガムシャラに手当たり次第に同書に出てくる米国の製材所や間連機械器具メーカーに英語の手紙を書き送り、情報交換を開始したものです。当時、インタネットはむろん、Eメールもありませんでした。唯一の手段といえば、1週間はかかった航空書簡でした。文通で実現した新技術の習得は2つありました。専門用語で恐縮ですが、帯鋸の「Oxyacetylene Welding(帯鋸アセチレンガス溶接)とHeat-tensioning (同熱処理腰入れ)でした。

前者は製材中に釘などを挽いて歯こぼれしたものを「入れ歯」する新技術も持ち合わせした画期的な技術です。後者のヒート・テンションに至っては、私が顧問を務めていた帯鋸メーカーの技術顧問でもあった当時の東京大学教授でもあった方が、その現象結果について、理論的に説明のしようがない、と絶句された経緯すらあったのです。冶金学には縁の無い私が素人考えながらも理路整然とその力学的説明をして同教授を唸らせたものでした。

ちなみに、ガス溶接技術ですが、日本では不可能視されていた同技術もその成功の根本的要因は、日本刀独特の鍛錬技術に通じるのです。英語ではforgingと称する行程ですが、現代技術への応用では後手に回った日本の帯鋸目立て技術の一端でした。

多くの交流仲間を実現した中で、もっとも密着した交流相手はオレゴン州にあるArmstrong Manufacturing  Companyという会社がありました。創業100年(当時は50年)ですが、現在にして存続している老舗企業です。ちなみに、クリックされるとそのウェブサイトが出ます。一世紀前のクラシック写真でその歴史が想像されます。同社の経営首脳との交流と支援を受けて独自に開発した器具とともに、新技術の導入に成功したものです。

ちょっと、時計の針を現代に戻してのことですが、前職経営経営コンサルタント時代は今から、かれこれ10数年前に同社の2代目社長が広島の代理店社長とともに、私を訪ねてきました。浦島太郎って体験をしたものです。ちなみに、同代理店(大阪本社当時)こそが私の実用新案商品販売とアメリカ技術普及に手を貸した企業でして、現在の広島会社社長とその弟さんの二人を英語の家庭教師をした経緯もあるのです。限りなく枝葉の広がるそれは私の英語にまつわるエピソードの一端でもあります。

かのアームストロング製作所の2代目若社長が当時、私に言いました。「ヨシダさんが羨ましい。顧客管理や従業員管理は荷が重い・・・」と。数年後に同社長は会社を売却して、同社と経営顧問契約を結んだと、書いて寄こしました。蛇足ですが、そんなエピソードもあるのです。これも英語がとりもった話です。

当時の「わが人生第1毛作」時代の英語がとりもつもう一つのエピソードを紹介しましょう。アメリカの月間専門雑誌でLUMBERMAN (材木人)というのがありました。これもくだんのCIA図書館で見つけたものでしたが、ある時、私が日本で初めてという凄い技術体験をしたのです。使い古して幅が小さくなった2本の帯鋸を縦に溶接して幅広のものに再現するというとてつもない試みに成功したのです。手間を考えれば、現代ではコスト的には疑問ではありますが、当時としては夢みたいな試みでした。見事に成功したのです。

そのことを英文にまとめて写真付で同誌編集長宛に送りました。広島大学の英文科教授に校正を依頼したところ、専門的内容なので、出来ないと言われたものでした。その寄稿文と写真がデカデカと掲載されたのです!20ドルの原稿料が送られてきました。当時のレートは360円、7200円といえば、当時の月給以上に匹敵したと思いますもいます。○○さんという編集長でしたが、毎月2ページを提供するから寄稿してほしいと、書いて寄こしてきました。後出の「転職」で結局は実現しませんでしたが、それにまつわるもう一つのエピソードに替えましょう。

同誌を購読しておられた北海道大学の北沢さんという教授が、私の記事をみて取材のために広島に来られたのです。林産試験場広島事務所の中村課長さんという人物と同行されました。私が日本から発信した情報が米誌に紹介され、それを購読者しておられた日本の学者先生がはるばる北海道から広島に見学取材に来られるなんて、当時としては特記するに値する出来事でした!日本情報が海外から逆輸入って図式でした。

アメリカ新技術間連の大量の資料を保管していたものですが、14年後の職業変えなどで、何時となく失いました。これら二つの技術を数年間極秘裏に活用して儲けたものです。後年に至り、私自身が発明開発した3つの実用新案機器の販売促進と抱き合わせして米国仕込みの新技術の普及のための講演・実演の全国行脚に転じたものでした。半世紀の日当は1万円プラス特許料って按配でした。

日刊木材新聞という業界紙に連載で技術指導連載記事を掲載したものですが、その単行本出版計画が台頭したものの、人生第2毛作への転換で埋もれた経緯があります。考えてみると、私の執筆体験実績やその能力は若くして開眼(?)していたのかな、と不思議に感じています。

話が多少前後して恐縮ですが、英語を取り巻く私の人生歴は極めて多様化したものです。この英語弁論大会優勝がはからずも英語のできる女学院生との接点や、その後年には同女学院大学英文科卒の女性と「結婚」する宿命(?)になったのです!もっとも、後年は30数年経って離婚の宿命に遭遇します。

わが人生第1毛作の末期でのことでしたが、私の業績を密かに見守っていてくださった県会議員が居られました。「吉田先生、貴方は公費で米国実業視察研修で渡米してほしい・・・」と。後述する人生第2毛作への転換直前のことだったのですが、もし、それに応じていたら私の人生は大きく大転換していただろう、と現在にしてその想いの真実味を味わっています。大好きな英語力を駆使して現地視察研修をして帰国して大活躍したか、それとも、現地でヤンキー娘と恋に陥ってアメリカ社会に溶け込んでいたかも・・・とロマンすら抱く一面があったのです。

わが人生第2毛作時代の英語

14年間続いたわが人生は第一毛作「職人自営業」時代に私の英語力が招来したビジネス・チャンスと青春物語の一端でしたが、結婚相手の女性の実家の商売であったトラック運送事業経営にシフトする運命に遭遇します。

私が満20歳前後の時代でした。英語がとりもった一連の友人関係の一角に存在したのが、女学院大学英文科卒の女性がいました。6年間続いた交際を得て結婚しました。相手は家業を継がす目的で姪を養女としていた家庭でした。養子をとって、家業の運送会社を継承さすというシナリオでした。

無頓着でゴーイング・マイウエイ式の私は、英語学習という共通の趣味動機が元で始まった交際でしたが、結婚を対象にした恋愛までに発展しました。しかし、一方では当方に強い懸念が否定できませんでした。相手はかりそめにも大学卒。当の私は身体障害者で高卒という立場。別段、劣等感なんて持つ私ではなかったし、じじつ、前述したような英語がとりもった青春時代を謳歌(?)した身です。卑屈な気持ちは全く皆無でした。

でも、相手の結婚条件は養子をとって家業を継がす、というのが本来の意図。吉田家長男として婿養子になるなんて、ゼッタイに考えることすらできない、しない人生選択肢でした。お惚気話のつもりは毛頭ありませんが、彼女は両親が許さないなら家出してでもボクと一緒になる、ということになりました。

忘れもしませんが、その数年後に病死した養父が、講演出張などで多忙を極めていた当時の私が病床を見回った折に、「祐さんよ、家業を継いでくれないか?継いで欲しいのだが・・・」と。その時の私は毅然として(?)応えたものでした。「条件付きの結婚はイヤです。ま、その常識的に判断していきます・・・」と言ったものでした。

養父の急死をうけて、否応なくといった恰好で、家業を継承する宿命になりました。当時雇っていた若い弟子に設備や商権の全てを無償で譲渡してやりました。その一方では、大阪・広島で拠点を持っていた商社主催の全国をまたにかけた講演・実演研修会講師としての活動は1年間継続したものです。

人生第2毛作と称してスタートしたトラック運送事業経営でしたが、当時は7,8台のトラックと14,5.名の従業員規模でした。「粒は小さくとも、光り輝く粒になろう!」を合言葉に継承した事業でしたが、結果においては7社、100台のグループ企業になりました。

その業界で直接に英語力が役立ったのは、Transport Topicsという米国トラック運送業界誌の購読でした。クルマの先進国米国におけるトラック運送業界の実情に接することが大事と考えました。後年、その最たるものとして私の関心を呼んだのは「Owner-Operator System」(個人トラック制度)という日本には存在しないモノでしたが、後年は1993年から始まった私の人生大毛作におけるエポック・メーキングな活動になっていくのですが、後述します。

直接アメリカの事業に関連するビジネスチャンスを得ました。麻生太郎・元総理大臣がお若い時代に米国で見つけて当時の麻生商事株式会社事業の一角に導入された「Zeabart」(ジーバート)と称する「車体防錆処理事業(ライセンス)」でした。広島県内のライセンスを取得して事業開始したものです。

同事業の発明者はドイツ系アメリカ人の同名の人物。同社の創業25周年記念事業に招かれて初の渡米をしました。1986年のことでした。むろん、英語力が役立ったことは想像に任せます。シーバートに関連したものとして一番の想い出は、同技術の発明者であるジーバートさん夫婦を訪問した時のこと。ドイツ系であることから、かの「ローレライ」をドイツ語で歌って、やんやの喝さいを受けました。

当時、日本の代理店は10数社。その中で唯一の英語力を有する代理店経営者であったわけです。レセプションで日本人代理店関係者は一つのテーブルを囲みましたが、私は厚かましくも他のテーブルに陣取って本場アメリカはもとより、欧州の代理店関係者とも親しく交流したものです。日本人同士の奇声をあげた格好のパーティー姿をみて、少し恥ずかしい想いを禁じえなかったことが現在に至っても尾をひきます。

そういえば、フィリピンの人で、笑い話に言った言葉が胸を刺しました。「日本人のグループが奇声をあげてテーブルや場所を占拠しているのをブレークしようとしたら、大きな英語で話しながらグループの中に割り込むことだ、そいうすれば途端にかれらは蜘蛛の子を散らしたようにバラバラになる、と。日本人のグループ意識は独特です。グループになれば大胆に、ひとりになると、途端におとなしく、という国民性は見事に見抜かれています。

後年のことですが、1993年に至って、人生第3毛作に突入し、二度目の渡米をした折に、ジーバート社長のハートマンさんと7年ぶりに再会した。その時、彼が呟いたひと言は「You look much younger and happier than I saw you last!」(以前よりもずっと若く幸せそうですね)でした。後出のことですが、この人生第2毛作にピリオッドを打って、人生3毛作に転じたことで、ある種の「呪縛」から解き放たれたかのようなそれは私の晴れやかな表情だったと現在にして想い出します。

32年間のトラック運送事業経営者人生で英語が役立った体験はこのことを除いて特記するものはあまりありません。当時はトラック協会が主催した欧米業界の視察旅行が多くありましたが、それに参加していれば結構役立ったかもしれません。でも、前述したように、グループ企業づくりで多忙を極め、かつ労働組合の洗礼を2度、3度と受けて、近代的労使関係を構築するという多忙な身であっただけに、外遊する時間と労力は許されませんでした。

しかし、前述したように、米国トラック業界誌を永年にわたって購読していたために、日本には存在ししない個人トラック制度のことを知り、後年に至って突入した「わが人生3毛作」への有効な執筆・講演による提言活動へと繋がるのです。

おりしも、人生第2毛作の末期において、ある特記すべき機会を得ました。全日本トラック協会が主催した「日米トラック運送事業環境間連シンポジウムが東京で開催されたのです。同協会の広島県代表のある委員を務めていた関係もあり、積極的に参加したのです。米側の出席者は米国運輸省や全米トラック協会の関係者の面々でした。くだんのジーバート防錆処理事業に関わる情報を得ることにありました。

懇親パーティーの場で、彼らグループに真っ先に接近しました。4,5名の彼らの全てはジーバートの名を良く知っていたことはその知名度として満足したものです。その時に交わした名刺に全米トラック協会の環境部会長のシェーファーさんという人物がいました。事前より狙いを定めていた人物でした。後年、その方がわが人生第3毛作の主軸に据えた米国視察旅行で絶大な支援を与えてくれることになったのです。英語力がもたらしたわが人生第2毛作末期のそれは出来事でした。

わが人生第3毛作時代の英語

1993年10月、前妻との離婚が招来したものとして、32年間のトラック運送事業経営から身を引いた私は満62歳でした。すみやかに、マヴァリック(一匹狼)の会社を設立しました。ロジスティックス(Logistics)のコンサルタント(Consultant)の合成語としての「株式会社ロジタント」(資本金1千万円)がそれでした。自称、「総合物流・経営コンサルタント」として人生4毛作に転じました。毛筆で書いた「新会社設立趣意書」は半紙で、たしか30数枚だったと記憶します。男の意地って心境で設立したものでした(笑い)。ちなみに、ロジステックスの合成語にもう一つの意味をくっつけたのは設立後半年経った時でした。私はかねてより「理論家経営者」を自負して行動しました。理路整然とした分析力と思考力を駆使する経営理念です。つまり、「理論」をLogic, logicalとしました。理論のコンサルタント、論理的コンサルタントに通じます。そんなことから、ロジタントには二つの語源がある、と自称したものでした。英語に通じる者のみの発想でそれはあるでしょう。

1993年10月5日に設立登記を終え、それまでに書き終えていた「個人トラック制度導入への提言」(業界紙毎回っ全面ぶち抜きで連載8回)の第1回掲載を見届けて、米国に単身で向かいました。1か月間の「米国取材ひとり旅」の出発でした。

申し遅れましたが、前職トラック運送事業経営者時代にも、かなり派手に業界紙・誌に寄稿文や取材記事が掲載されたものでした。現在の私のウェブサイトにはそのほとんどを原稿もしくは掲載紙面スキャナーで掲載しています。本格的な執筆・講演活動が満62歳後、わが人生第3毛作で待ち受けることになりました。

その第一陣、第一発の仕事がくだんの「個人トラック制度」に関わるもなりました。元はと言えば、その発想そのものも、英語力が招来したものでした。先進国米国の「後追い」が日本の実態であることを早くから公言して憚らなかった私でしたが、個人トラック制度導入への提言活動もその一環でした。

英語力が最高に発揮されたのは、何といっても1か月間のアメリカ大陸横断ひとり旅取材の時です。前述した全米トラック協会のシェイファーさんが側面から支援してくれました。彼が招待してくれたAmerican Trucking Association, Inc. 主催の一週間に及んだ1993年度年次大会出席は圧巻でした。その時に交わした名刺は150名余。その多くの人たちがその後における私の米国ひとり旅取材に大きな手助けになってくれたのです。

当時はまだアメリカと言えども、Eメールはありませんでした。帰国して間もなくインタネット・Eメール時代の到来となったものです。もし、数か月の差があったら、名刺に記載されたメールアドレスを頼りにリアルタイムの交流ができたものを、と何度か思ったものでした。

英語力が招来した米国における「個人トラック制度」の存在。その制度の日本への導入提言を業界紙・誌を通した執筆に託しました。それはそれは、おびただしいボリュームに至りました。「米国取材体験記」は個人トラック制度導入への提言」に次ぐ、大量のものになりました。前者は8回、後者は15回連載と倍増しました。

6万社に及ぶ日本のトラック運送業界ですが、嫌でも名が売れました。その最たるものは、そのシリーズの愛読者であった東京の老舗企業経営者の眼鏡にとまって顧問契約締結に結び付きました。全国各地における講演機会を与えられました。前職人生第1毛作時代の講演行脚の再現でした。日本列島は南端部の沖縄でも講演しました。

一方、永年にわたり属していたSAM(Society for Advancement of Management)という米国本部とする国際的経営者団体の会員、なかんずく広島支部長という立場にあって、英語力を行使する機会にも恵まれました。最大の収穫は、2004年4月に行われた米国国際本部主催の年次大会で「国際賞:Material Handling Award」を受賞したこと。ラスヴェガスで開催された年次大会で受賞し、受賞者スピーチを9分間してヒューヒュー口笛付きのスダンディング・オーベーションを私が席に着くまで受けました。

参加者340余人。大学教授、大学院生と経営者それぞれ3分の1づつの割合といった混成メンバー。わが人生でもっとも感劇的な場面でした。最期の言葉は、”Try to learn as if you were to live forever, and live as if you were to die tomorrow.” (永遠に生きると思って学び、明日死ぬると思って生きよ)で結びました。

翌朝ホテルのフロントで出合った幾人かの教授連が異口同音に評価して付け加えて言ってくれた言葉は、私たちの学生がことのほかあなたのスピーチをappreciate (評価)していましたよ、でした。2006年6月のことでした。

数ある経営者団体組織のひとつの会合で、広島市内に住み、英語教師をしているあるフィリピン女性の講演を聞く機会を得ました。英語と日本語チャンポンの講演でしたが、かれこれ2年間の空白の後に、ひょんなことで再会したことが発端となり、フィリピン永住の話が持ち上がりました。わが人生は第4毛作への転換の突破口になったのです。

ちなみに、英語のできる私は、人生最期の選択肢として、英語の通じる海外生活を考えていました。折角培った英語力を駆使して有終の美(?)を飾りたい、というヨシダ美学でそれはありました。5,6年間マレイシャに駐在した経験の大手商社勤務の甥が進言してくれたのは同国でした。そんな折に奇しくも出逢ったフィリピーナが助言してくれました。日本円とペソのレートや同国における生活費の安価さ、なによりも、英語が第二国語であるというお国柄の魅力でした。老後のケアも任せて、という進言を受けての決断でした。

2008年12月にそのフィリピーナの甥の結婚式パーティーへの参加をかねて、この国の「下見」をしました。その翌年の2月1日に「移住」したのです。かくして「わが人生第4毛作」が始まりました。

わが人生第4毛作時代の英語

折角学んで身につけた英語力ならば、それを有効に活用して人生を全うすることに、その価値があるというもの。現在に至っては、臆することなく、アメリカン・アクセントを気にするというよりも、あえて自負しながら、堂々と明確に発音して生活しています。

今まで出合ったフィリピンの人たちから、先方から日本人ですね、と言われたことは皆無です。圧倒的なのがアメリカ人ですか?が反応です。そのことを得意がるほどオッチョコチョイではありませんが、その理由をはっきりした口調でしゃべる米語的発音・アクセントのせいと自覚しています。

フィリピンの人たちの英語は米語的でもなく、英国的でもありません。Rの発音を強くした、独特のニュアンスの英語です。慣れてはきているものの、聞きにくいことは否定できません。内に籠ったような発音です。対する私の英語発音は極めてはっきりとアメリカ人的な発音で歯切れ良いと自負しています。英語が公式言語のフィリピン社会では臆せず米式英語でしゃべることに全く違和感はありません。むしろ、こちらの存在感を高めることを体感しています。本場アメリカで話す私の英語より、此処フィリピンでの私の英語には自他共に自信を深めつつ、楽しんでいます。

とりわけ、多くの人の中で話す私の英語が目立つみたいです。得意になるわけでは断じてありませんが、この際だから、躊躇うことなく、はっきりと発音することを意識的に心掛けるようにしています。もともと、英語発音には自信がありますので、ゆっくりと明確に話すことに躊躇いはありません。たとえ、一部がブロークンであっても、です。可笑しなもので、コソコソと小さい声と発音で話すと、自信なげです。反対に、堂々と、ひと言ひと言を正確にゆっくりと話す方が自信あり気に聞こえることに気付いてきました。

そういえば、日本人が小さい声でモグモグと英語を話すのは、発音に自信がないからです。その全く逆をいっているのが私です。このことは最近に至って強く意識していることです。VOAテレビに出てくる人たちの英語は申し合わせたようにはっきりした口調でして、若者たちが早口で聞き取れにくい英語を話すのとは一線を画している感じです。・・・と、まあ他愛もない英語評論になりましたが、ホンキでそうしたことを心掛けています。

さて、先日、満79歳の誕生日を迎えた私ですが、自著・自作編集のウェブサイトに掲載している拙文は後を絶ちません。とりわけ、毎週月曜日の「週刊メッセージ」は日英両語を貫いています。「独り言」や「特ダネ情報」の中には英語版を作成したいものが随分とありながら、手が回らないのが現状です。

そこで、最近に至ってつくづくと実感しながら満足していることがあります。それは、大好きな英語を駆使してそうした執筆活動ができることと併せて、この国の人たちと話し合うことが出来ることの無上の喜びです。この地に移住して間もなく2年を迎える私ですが、その間、タガログ語のひと言も喋れないことを微塵も恥じていません。

「タガログ語を学ぶ時間があったら、もっと英語の勉強をしたほうが賢明だ、しかも、フィリピン人にとって、英語はれっきとした「第二国語」。その英語で通して何が悪い!」といった主張でもあります。そのことをかれらに明言したら、何と誇らしげに反応してくれるのです。

近所のSMで偶然語り合ったアメリカ人と話した折に、全く同じことを彼が言いました。Not a single word of Tagalog!(タガログ語はひと言もダメ)と、誇らしげですらありました。1942年以来のフィリピン生活。奥さんはフィリピーナです。彼を真似て!?っと、ホンキで思わぬこともない昨今の私です。

日本の若い人たちへのロロ(タガログ語のお爺ちゃん)の伝言は、英語をもっと勉強しなはれ!です。「ひと昔前までは、英語を知っていたら得をする、でした。現代では、英語を知らなかったら損をする!!デス。肝に銘ずべきですぞ〜!」が長文になりましたが、本著で著者が言わんとする日本人若人諸君に対する満86歳5ヶ月のニッポン人爺さんの助言・進言です。(完)

            自 2010年10月28日
            至 2010年10月31日

           2018年 3月31日(再編集)
              執筆・編集者:吉田祐起

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