(This site is edited by Encode "Unicode(UTF-8)")    
                             
                   著書・執筆実績・懸賞論文(冊子・雑誌・単行本等)記録

 (目下、再編集中です。でも、スクロールダウンしてご覧くださいませんか。おやおや、随分と書いているな、と思われるでしょうよ・・・。これって、氷山の一角ですから・・・)

自称人生第一毛作(15年間に及んだ「独立職人自営業時代(満15歳~満30歳)」)に書いたものといえば、当時、米国から導入成功した新技術や独自に開発したもの等に関する記述ものくらいでして、当時、日刊木材新聞にシリーズとして執筆していたものがあります。記憶が定かでありませんが、シリーズ10数回で終わったと記憶します。当時、同新聞社は親筆完結の暁には単行本出版をする計画でしたが、当時の広島県会議員さん(確か中津井さんという方)が私の活動や業績を知られて、官費をもって米国留学を進言してくださったことがあります。奇しくもそれと前後して起きたのが、当時の家内の養父が経営していたトラック運送個人企業をその死去に伴い、同事業を継承せざるを得ない立場にいたり、米国行きを断念した経緯があります。

同新聞に掲載した原稿はむろんのこと過去の遺物みたいに失い、同紙掲載のコピーも手元に残りませんでした。もし、保存していたら、そのコピーを本コラムのトップに掲載できたでしょうが、残念な気がしないでもありません。人生に「もし」はありませんが、万一、米国に留学していたらヨシダの人生は様変わりだっただろうな、と現在にして思います。英語の大好きなそれはヨシダが描いた青春時代のロマンでありました。

さて、満30歳にして職業替えしたヨシダですが、トラック運送事業経営者に転じてからはものすごいピッチで書く機会を得たものです。その殆どは本コラムとは別の下記コラムに収録していますので此処でもリストアップしておきます。相当以前の変種ですので、若干、お見苦しい点もある意と思いますがご勘弁ください。
            「  3.専門業界誌(紙)寄稿論文記録
      4.一般出版物寄稿エッセイ
           5.SAM NEWS誌寄稿エッセイ
      6. ロジタント・ウェブサイト・レポート(旧株式会社ロジタント時代) 
         7.トラックドライバー帝王学のすすめ(文芸社刊)  (単行本) 

本コラムでは、自作小冊子の形をしたものや各種の雑誌などに掲載された拙著や出版した単行本等を含むものを集めて掲載しました。

人生四毛作とした「総合物流・経営コンサルタント」(株式会社ロジタント代表取締役)時代に入って運送業界の規制緩和提言活動を活発にしたことから、急激に論文執筆が加速し、業界誌(紙)への寄稿論文は件数にして百数十件に至りました。そのような大量の拙著掲載論文は別コラム(上掲)に掲載していますが本コラムでは単発ものの新聞記事を含めて、主として「書籍・雑誌・単発物」といった類の拙著を収録したおのにしました。

本コラムは従来は各印刷物の内容等(出版年次・概要等)に関する記述も添付していましたが、どうしたことか、そのファイルが消滅したことから、やむなく、新たにこのコラムを作成したものです。したがって、従来のような詳細な内容の記載はしないまま、かつ筆者の記憶内で最小限度のコメント程度にしたものです。わが人生の記録の一端としてのものとする次第です。なお、その掲示方法は古いものから新しいものといった順序に列記しましたのでご諒承ください。想い出多きそれはヨシダの「出版物スタイルで発表した拙著実績の一端」です。

                                                       2013年10月28日
                                                                  吉田祐起

  以下、30件近い冊子、雑誌、小冊子等々、何らかの形で出版された拙著論文ですが、当初の一連のpdf 資料が消滅したことから、記憶する範囲内で説明文を記しつつあるものです。あしからずご諒承ください。想い出すごとに追記することにしています。従って、各記事ごとの説明文もしり切れトンボになっているところもあります・・・。                              

                                                                   No.1
                                           
    1.陸上貨物運送事業労働災害防止協会創立15周年記念懸賞論文   3等賞
                                      『わが社の労働災害防止対策について』
                                               昭和54(1979)年12月15日出版
労働組合を擁していたことから、労災活動に関してありきたりのものとはまったく異質でした。労組に対する労災補償も応分な契約にしていたことから、「権利の主張と義務の履行精神」は一般の中小企業の労使とは異質でした。それだけに、異質の内容の論文が書けましたし、評価されました。
                                                                  
                                                                    No.2
                                             
                    2.労働安全衛生法思考10周年記念懸賞論文   銀賞1点
                                                 『労働災害防止と企業経営』
                                      金賞1点、銀賞1点、佳作3点、努力賞5点
                                                   昭和57(1982)年10月
本懸賞論文の後日談エピソードを耳にしました。金賞と銀賞を巡る審査員の意見の違いです。聴くところによるとかれこれ1時間も審査員間で議論があったそうです。拙著は労働組合を相手にした言わば奥の深い議論であり体験に基づいたものだけに、通常の文章とは奥行きが深いと自負していました。逆にそのことが審査を巡って是非論が湧き上がったと想像しています。機関紙に金賞作品が掲載されましたが、その平凡さにちょっと疑問を自他共にしたものです。自費冊子出版したのですが、当時の広島県トラック協会会長であり福山通運社長の渋谷 昇sqんが「冒頭に推薦状」を書いてくださったものです。既存荷主はもとより、新規開拓荷主に提供してわが社の健全な労使関係をPRし応分の役割をしたものです。
                                          
                                                                   No.3       
                                              
       3.業界自助努力による輸送秩序確立施策への提言~業者間相互信頼強化と
                                 適正手数料授受に基づく近代的業務提携の推進~
                                               社団法人全日本トラック協会出版
                                                 昭和63(1988)年7月出版

本著出版に関して意義深いものがあります。当時ヨシダは地元広島県トラック協会理事や同広島支部副支部長等の要職のかたわら、社団法人全日本トラック協会の「輸送秩序確立専門委員広島県代表」の要職にありました。当時は過当競争もあって、運賃秩序が乱れており、それらへの対応を協議実践する委員会でしたが、この問題に関する意見書を書いたのが発端でした。広島県警本部長から全日本トラック協会常務理事に転じられていた人物が拙著論文に強い共感を得られて、単に意見書にとどめるには勿体無い、出版して全国都道府県トラック協会の全役員に配布するべきだと主張。全800冊印刷して全国に配布されたものです。 この内容が各方面に評価され新たな局面が訪れたものです。
 
                                                                      No.4

                                               
                            4.業界自助努力による輸送秩序確立施策への提言
       ~業者間相互信頼強化と適正手数料授受に基づく近代的業務提携の推進~

             株式会社日本流通新聞社月刊誌「トラック経営」1986年9月号
拙著受賞論の全文が掲載されました。kのことが、後日において、各方面に少なからぬ波紋を呈することになったものです。次の出版物もその一つです。
 
                                                                      No.5       
                                                                                     
             5.岡田清・神奈川大学教授VS吉田祐起・広原海陸運輸社長
                        輸送秩序確立は業界雑誌の懸賞論文受賞から
                  株式会社日本流通新聞社月刊誌「トラック経営」1986年10月号
                岡田清・成城大学教授との誌上対談(於東京)

岡田教授はトラック業界に造詣の深い数多くない大学教授のお一人でして、規制緩和問題を縁に知己を得たご人物です。拙著が縁で対談機会を得たときの収録です。東京のホテルで取材記者立会いで行ったものです。

  No.6    
  

 6.株式会社田辺経営出版の機関誌「The Eagle」
田辺経営(現・株式会社タナベ経営)はコンサルタント会社として当時躍進中。創設者であり当時の社長は田辺昇一さんという人物。同氏著の書籍は膨大でした。同社が全国規模で推進していた「イーグル・クラブ」という経営者組織がありました。広島支部に属し、積極的に主催研修会や講演会などに参加したものです。その機関誌に掲載されたのがくだんの拙著論文でした。再編集に当たって、ふと思いついて同社をグーグルしました。創設者の田辺昇一さんの現在のお役職名は「創設者・相談役」でしてご子息が社長になっておられます。この「イーグルクラブ」で愉快なエピソードがあります。毎年正月にイーグルクラブ広島支部例会パーティーがあったのですが、田辺社長がステージで、一斉にジャンケンポンして最期に残った者がお年玉として小さな純金メタルを獲得するゲーム。百人以上の参加者に中で、なんとヨシダが勝ち取りました。しかも、奇しきことですが2回目も勝ったのです。さすがに遠慮したヨシダはその場で直前までヨシダと勝ち残った人に差し上げました。偶然とは言えない場面を体験したのは一生忘れません。

       No.7

  7.月間雑誌「財界ニュース」
当時の高度成長期における物流業界の動向(近畿運輸局とその業界)記事の中に登場したのですが、内容の記憶が定かでありません。当時のヨシダはいろんな意味で脚光を浴びていたことは確かでした。
   
   No.8

                            8.「ハングリー精神   あるビジネスチャンスへの遭遇」
                       物流ニッポン新聞主催「チャレンジ物流」応募作品「筆頭優秀作品」
トラック関連新聞社のひとつ「物流ニッポン新聞社」が主催した懸賞論文「チャレンジ物流」に応募した作品で「筆頭優秀賞」(3作品)を受賞しました。最優秀賞該当作品がないことから「優秀作」3作の筆頭受賞作品になりました。「7社グループ企業」を形成するに至った背景を書いたものでした。表彰式・パーティー当時は米国出張(当時手掛けていた米国本部の車体防錆処理事業・広島県ライセンス業者の立場)で、本部:Ziebart International 社の25周年記念事業出席のため不在。ために、当時の専務を代行出席させたものでした。ちなみに、当時の運輸大臣(現・国土交通省)石原慎太郎さん(後年の東京都知事)も出席された授賞式・パーティーがありました。審査員は藤本儀一さん(故人)と曽野綾子さんでした。出席していたら又とないご三方との接点を得たところでした。本紙裏面に拙著全文が掲載されているものです。なお、原文は折をみて下記に添付する予定です。なお、藤本義一さんとの接点が後年、ヨシダが属していた全国経営者団体連合会(と言っても同名の著名な組織とは全く別の組織)中国ブロック会長時代に講師に招聘したおり、そのことをお話したら、「そうですか、詳しくは記憶していませんが、そういえば、石原さんもご一緒でしたっけ・・・」と思い出す風情でした。有名人だけに、公の行事は数限りないので、多くを期待するのはドダイ、むりではあると思ったものでした。
 
  No.9
http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-9.jpg

9.株式会社田辺経営出版の機関誌「The Eagle」
内容に関しては残念ながら記憶していません・・・。特集「人間学」にちなんだ内容ではありました。

  No.10  
http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-10.jpg

10.トラック運輸事業経営合理化対策へのご提言
~ジーバート自動車防錆処理システムの効果と役割~

凝り性のヨシダは営業用PR活動も積極的でした。当時、米国から導入したのが「ジーバート自動車防錆処理システムZiebart Rust-Proofing System」`という新規事業導入がありました。米国では冬季に高速道に凍結防止剤の塩カリを散布することから車体腐食が激しく、アーフタ・マーケット事業として発達したものです。かの麻生太郎さんが麻生セメント社長時代に米国から導入されて日本全国の商権を得られたもの。同社との取引があったことから、後年の現社長・麻生泰さんになって、広島県商権を獲得したものです。この新規事業推進にヨシダ持ち前の手法として書いたのが本書です。広島地元大手企業の中国電力さんも導入されました。広島県警本部高速道パトロールカーなどへの売込みに貢献した宣伝用論文です。凝り性のヨシダがやりそうなことではありました。

No.11
http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-11.jpg
11.「経済レポート誌」表紙へのヨシダ書
"財を遺すは下    事業を遺すは中    人を遺す上
されど   財なくして事業保ち難く   事業なくんば    人育ち難し"

ご覧のように写真つきの下手くそなヨシダ自筆の毛筆格言です。ここに至るにはいろんなエピソードがあります。くだんの「ジーバート自動車防錆処理事業」導入がマスコミ業界の注目の的になりました。話題性が豊富であるためですが、大小のマスコミ関連記事は事後、百数十件に及ぶことになりました。いきなりマスコミに躍り出た、出さされたといった状態になったものです。ちなみに、この格言は中国の聖人の誰やらさんの言葉とか。本誌本文中には書いていますが、手元にありません。(以下、継続中)

No.12
http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-12.jpg
12.月間経済レポート誌「第一経済レポート」

発行部数は知りませんが、表紙を飾るとは大したもんでしょう!(笑い)。たしか、ヨシダの誕生日特集記事だったと記憶します。こうした脚光を浴びたのは「ジーバート」のお陰でした。話題性が豊富だったのです。ジーバートが縁でマスコミ記事になったものだけでも大小100件に至ったものです。広島地方出身の経営者で誕生日を迎えた方々の特別取材に応じたものでした。この時のヨシダはのたしか、満50歳でした。胸にはライオンズクラブのバッジと社章で得意満面(?)って時代でした。

No.13
http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-13.jpg

13.「青少年に贈る言葉  わが人正論(広島編<下>)」
"ハングリー精神・常識の積み重ね~わが人生への活力と成果~"

(文教図書出版株式会社出版平成3年8月20日)
フィリピンに持ってきた数少ない貴重な拙著のひとつです。日本全国都道府県の著名人執筆による珍しい書籍です。広島編上・中編では広島県知事から各市市長をはじめ、産業・教育界等の著名人で占められたもので、当初は強く辞退したものの、応じたものです。同記事にはグループ企業全員終結の年賀パーティーを広島市内のグランドホテルで撮った集合写真は圧巻(?)です(笑い)。

No.14
http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-14.jpg


14.米国の個人トラック制度  現地取材体験日誌
物流ニッポン新聞1999年3月22日~5月17日  15回連載
.『米国の個人トラック制度/現地取材体験記(15回連載)』
   ご覧のように業界新聞に業界新聞に15回連載でしかも、その都度1ページぶち抜きという異例のスタイルで掲載されたのは異色でした。わが人生第三毛作に転じて処女事業としたの一ヶ月間米国単身取材記です。帰国後の更なる論文の業界紙(誌)への掲載はヨシダの人生第三毛作を飾るに相応しいものになりました。本書だけでも格好の単行本足り得るないようですが、推薦されたものの、そこまでは思い切りませんでした。なお、本編に続くのが拙著「個人トラック制度への提言」ですが、ヨシダが踏み込んだ第二の提言活動の原点です。本論文を突破口にさらなる反論・提言論文の発表と続いたものでした。でも、それらを本コラムに網羅するには相当の時間を要しますが、何時かは掲載するつもりです。(以下、つづく)

No.15
http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-15.jpg


15.「生涯学習とボランティア活動のあり方一考~"1本のあざなえる縄の如し~

(A Thought about the Relationship between Lifelong-Learning & Volunteer Activities~It is something
Like  "A Rope Twisted Together into One")

上智大学が募集した同学編集書籍「生涯学習フォーラム」への寄稿論文です。後日のこと、同論文が各方面で話題になったものです。その一つが、次の書籍に通じます。このことが縁で、上智大学本部に足を運んだのが思い出です。

                                                                            No.16
                                                    http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-16.jpg

16.社団法人健康・生きがい開発財団出版「生涯学習とサクセスフルエージング」
                                                          (1999年7月10日発行)
吉田論文生涯学習とボランティア活動のあり方一考~"1本のあざなえる縄の如し~

                                                                                No.17
                           http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-17.jpg

                 17.業界紙;「ロジクロ」第一面トップを飾った「こうなる!運送事業」
日本の運送業界関連紙・誌に大きな波紋を呈したヨシダの存在でした。この記事を読んだ経営者から顧問契約の商談が舞い込んだものでしたが、当時は身いっぱいの顧問契約をもっていたことから、辞退したものです。

No.18
http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-18.jpg

18.単行本:トラックドライバー帝王学のすすめ~"ザ・プロフェショナルズ"への教科書
(文芸社刊2004年4月15日全364頁)
本書はヨシダが単行本として出版した最初のものです。そこに至るエピソードがあります。当時、経営コンサルタント(株式会社ロジタント代表取締役)として、かつまた、「全国経営者団体連合会中国新聞ブロック会長」の要職にあったことから、同連合会主催の講演会孔子としての活動もありました。ちなみに、同組織はかの著名な「経団連」とは同名であるものの、まったく関係はありませんでした。主催者人物が名誉心旺盛で、毎年著名な講師を招聘して東京で「全国経営者セミナー」を主催していたものです。その組織の講師であることをもって、ヨシダは自己紹介のためにも、自叙伝的な単行本の出版を考えた経緯があります。同じ組織に連なり友人関係にあった文芸社営業部長(当時)に自分史みたいな自著出版の可能性を相談したことがあります。その折に助言されたことは、トラック業界の規制緩和問題に取り組み、かつ論文も発表している立場にあって、講師として相応しい「トラック業界なかんずく、肝心の個人トラック制度への提言に関連した書籍を出版することが急務ではないか、という助言を受けて、方向転換して本書を出版したものです。ヨカッタ!というのが実感でした。(以下、つづく)

No.19
http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-19.jpg

19.「道を歩む素敵な仲間達」への寄稿文

2004年10月1日発行

ヨシダの友人関係にあった人物が企画した単行本出版に応じて執筆したものです。広島市在住の5名の経営者による寄稿文を集約したものです。20ページにまとめた拙論ですが、その見出しは下記の通りでした。
1.安全運転の原点はスキルでなくウィルにある、技術でなく心がけにある
2.一般管理費を減らして、物流コストを下げるという世のニーズが歴然とあるのです。
3.リーダーの資質というか経験や人生哲学、そういうものを備え、把握し低なかったらそういう教育はできないです。
4.社会に対する奉仕とか感謝の心とか、他界理念を持った経営者は少ないです。

                                                                       No.20
                                           http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-20.jpg

業界紙・物流Weeklyトップ一面記事;「個人トラック制度 実現、間近か」

物議を醸していたヨシダの個トラ提言(個人トラック制度;最低車両台数規制の撤廃)でしたが、業界紙が当時の印象を話題にしたものです。(以下つづく)

                                                                            No.21
                                             http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-23.jpg
   23.「いきいき ハツラツ わが人生は三毛作! ~四毛作への助走も始まった~」

経営コンサルタント(株式会社ロジタント代表取締役)として人生三毛作に入り、終盤頃のこと、講演活動をすることから、「自分史」の執筆に入りました。当時、すでにフィリピンへの移住も視野にあったりで、「人生四毛作」を意識してサブタイトルにいれたものです。単行本レイアウトで120パージに書き進んで中断していたものを自家製単行本みたいに編集製本したものです。なお、後日談を記しておきます。前出・拙著単行本「トラックドライバー帝王学のすすめ」がありましたが、それが縁でその出版社(文芸社;東京銀座)が募集した懸賞論文(テーマは「初恋、初カレ、初カノジョ」)に応募したものです。それが次の単行本のページを飾ることになりました。

                                                                  No.22
            http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-21.jpg

21.文芸社主催懸賞論文「初恋、初カレ、初カノジョ」受賞作品集単行本(全369ページ)
ヨシダ受賞論文(佳作)「人生の恩人 プラトニックラヴした永遠のカノジョ

拙著単行本「トラックドライバー帝王学のすすめ」出版が縁で同出版社(文芸社)の募集に応募した拙著。応募者717名、大賞1作品、準大賞4作品、佳作50作品、計55作品に佳作に選ばれた拙著です。クリックすると全文(pdf)が出てきます。英語弁論大会が縁となった「カノジョ」との出会いでしたが、文字通り、ヨシダにとって「永遠のカノジョであり、わが人生最大の恩人」です。本作品居はにはカノジョの兄や妹の承諾を得たうえのものですが、現在に至ってお二人との接点をメールで得ています。肝心のカノジョは同論文にも書いていますが、米国留学で同窓生と結婚。一児を設けながら早世されました。ご夫婦で広島に里帰りされた折のこと。カノジョの旦那さんがヨシダの姿を見つけて真っ先に歩み寄られて言われた言葉がケッサクでした。Hello, Yoshida-san! I know you used to be my wife's boyfriend!" と、あっけらかんでした。(以下、つづく)
                                   

                                                                          No.23        

                    文芸社「人生いろいろ大賞」(応募作品)

    いきいき ハツラツ わが人生は三毛作!
                ~四毛作への助走も始まった!~


                                 著者・吉田祐起のひとり言
    この原稿は文芸社(東京・新宿)が募集した「人生いろいろ大賞」(島倉千代子さん特別審査員)の応募作品です。「文章の良し悪しを評価するだけでなく、様々な人生を率直に綴り、その人生の軌跡のドラマを綴ってみませんか・・・」という呼びかけ。
   同出版社では2004年4月に拙著「トラックドライバー帝王学のすすめ」を出版。翌年5月、「初恋、初カレ、初カノジョ」と題した同社出版本(369頁)に拙著入選作品(717応募作品・55作品入選)がページを飾ったこともあっての応募機会でした。
   当時、講演ジャンルが拡大しつつあった私にとって、講師ステータスともなりうる「自分史」でもあることから、何時か本格的に執筆してみたいと願っていたものです。
                                            2006年1月

全文単行本レイアウトで218ページになった作品ですが、この自分史応募作品を巡って後日のエピソードがあります。そのことは本欄の下に記すとしてのことにして、同原稿の末尾の「」あとがき」をこの際、下記に追記してご参考に供します。

「あとがき」
70数年のわが人生を振り返りつつ、日記や手帳など、それに多くの執筆記録を頼りに一気に書き進みました。考えれば考えるほど、わが人生は「非計画的」でした。時には「間抜け」といった側面も否定できない生き方であったかもしれません。
   そんな折、ある週刊誌の記事が目に留まりました。「ソニーのハワード・ストリンガー氏は元・トラックや野郎」がそれ。決して裕福ではなかった彼の家だったそうですが、オクスフォード大学卒業後の渡米資金を貯めるために、トラック運転手を八ヶ月間。ゼロから現在の地位を築き上げた彼の信条は「仕事を楽しんでベストを尽くし、次に何の仕事に就くか考えないこと・・・」。
   かくいう私は、自身の「宿命に翻弄された」かのような生き様を、その都度「これでヨシ!」と受け止めてきました。それだけに彼の信条に勇気付けられます。
    今までのわが人生を振り返ってもうひとつ思い当るものを感じ、これでヨシ! と自身に言い聞かせるネタがあります。かれこれ10年くらい前でしょうか。日本経済新聞が大きく紹介した米国のベストセラー本「Age Wave(時代の波)」というのがありました。
   著者の‘Dr.Ken Dychtwalt は心理学者・老人病学者であり起業家。原書を取り寄せて一気に読みました。その内容をかいつまんで言えばこんなことです。これからの時代はリニア(直線)型でなく、サイクリック(循環)型人生であったほうがイイ。具体的には、前者は一つの特定した勉学(例えば工科・経済科・文科・商科)を専攻して卒業し、一つの企業へ定年まで就職して定年を迎え定年後人生は夫婦で世界一周旅行して・・・、あの世に旅立ち・・・、といった直線的な生き方。後者の生き方は、専門学科は幾つかあってもイイ。就職先の会社も必要に応じて替えればイイ。定年後の生き方も色々あってもイイ。時代に即応した柔軟な生き方処方箋を、と提案しています。同じ調子で夫婦関係の在り方も書いています。ソリが合わなければパートナーをチェンジしてイイ。相手が死んだら再婚せよ、再婚する勇気がなければ同棲せよと。同著で目にとまった著者の新(造)語があります。Handicapable(ハンディキャップがあっても能力ある)という形容詞。この言葉を含めてわが人生を振りつつ、ニンマリってところです。
   かの哲学者イマニュエル・カントの末期の言葉「Es ist gut(これでよし!)」をわが人生で再現したいというのが現在の心境です。
  2006(平成18)年一月                                 吉田祐起

・・・と、随分と手の込んだ応募懸賞論文でしょう・・・、と反省しつつですが、これには後日談があるのです。ヨシダの自分史は経営者人生を貫いただけに、一般のサラリーマンの方々とは一風変わったものの考え方や描写があることを意識しています。文芸社の方々の感想もそうでしたが、一般向けしにくい面は否定でなかったと思います。でも、考えてみるに、自分史ってものは、言わば人生の最終段階すなわち、もうこれ以上のものはないであろう、だから自分史を書いてわが人生を締めくくる、という動機や想いです。ところが、ヨシダのそれは「これからがホンモノの最終人生だ」といった意地があるのです。それこそがサブタイトルの~四毛作への助走も始まった!~とする所以です。つまり、自分史を活字にするには早すぎる、ということです。じじつ、最終のわが人生四毛作を此処フィリピンで創めて4年。ご覧のように書くことに関しては「老いてますます盛ん」といったところ。これからが本番、最終有終の美を飾る人生四毛作!って心境でるのが事実です。

さて、これで自分史(自叙伝?)の応募作品エピソードはおれで終わり、ではないのです。離日の準備で大忙しのとき、文芸社の営業マンで前回の書籍出版でも縁をもった人物から突然に電話が入りました。「多少の協力金のご負担はお願いしたいのですが、くだんの応募作品の出版をしませんいか」という勧誘でした。言外に感じたことは、その人物が拙著に強い感銘を向けておられたものの、一般向けしにくいのではという意見に妥協しておられたものの、世に出さない(出版しない)のは勿体ない作品だ、という感触でした。日本には戻る気は毛頭ないヨシダだけに、日本での出版には全く関心すら失せていたこともあり、離日準備で一寸を争うほどの多忙さもあって、いささか折角の好意を無下に断るといった感じで応答したのでした。でも選外だったヨシダ論文が後日において、そのような専門家の評価を得たことを密かに喜んだものではありました。

フィリピンに来てしばらくしてのこと。そうした執筆実績を知ったある米人執筆家で米国滞在の人物が英語で書きなさいよ!アメリカで出版しなさいよ!と。これには驚きました。でも、何が将来起きるか分かりません。加えて日本語の自分史は既にウェブサイトに掲載していることだし、じゃあついでに英語版もチャレンジするか!って気分になりました。じじつ、、英語版は"A-bomb and Me"(原爆と私)と題して、何時でも最終章"The Fourth Stage of My Life" への執筆に転じることも可能です。

                                                                          No.24
                                           http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-22.jpg
      22.SAM(The Society for Advancement of Management)
   日本チャプター創立80周年記念誌

SAM(The Society for Advancement of Management)経営者団体でして、規模はロータリークラブより小さいですがそれよりも長い歴史を誇ります。本部は米国の大学にありまして、東京の日本支部、名古屋、大阪、広島支部等、かくいうヨシダは広島支部長を長年努めていましたが、離日に際して同支部を閉鎖のやむなきに至りました。本誌は日本支部80周年を記念に発行されたものでして、ヨシダの論文等も掲載されています。詳細は同署が見つかり次第に追記しますが、特記すべきはかのトヨタ自動車の豊田章一郎会長が名古屋支部に属しておられることです。80周年記念事業の一環に同会長に講演していただきました。名刺交換のうえ、親しく懇談する機会を得ました。同会長は政府規制緩和小委員会会長職にあられたこともあって、ヨシダが提唱したわが国トラック運送業界の「規制緩和(最低車両数規制の撤廃(別名;個人トラック制度の容認))」に取り組んでいた時分にご縁をいただいた経緯があります。なお、SAM日本支部機関誌「SAM NEWS」のレギュラー・ライターを自負したものですが、過去の拙著すべてを収録したのが「SAM NEWS誌寄稿エッセイ」です。25編の寄稿文を収録しています。また、ラスヴェガスで開催されたSAM国際会議の場で「国際賞」受賞に際して行った英語スピーチがありますが、340人の参加者全員総立ちのスダンディング・オベーションを受けたのは忘れ難い感動の体験でした。。そういった諸々の出来事を記録した文章がこの記念誌に掲載されています。                                                              

No.25
http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-24.jpg

No.26
http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-25.jpg

No.27
http://www.a-bombsurvivor.com/contents/writing/writing_No.1/writing_No.1-26.jpg

 

                                                                          No.28
                                  
                                                 
                          『被爆証言者に転身 米国で講演行脚の実行へ』  
                  
   (平成21(2009)年1月1日(正月元旦)号 物流Weekly紙
この記事はヨシダが「在日」中最後に業界紙に出たものです。振り返ってみれば、大小に渡る拙著や取材記事は百数十回はるかに突破するものでして、主なものを大きなファイル20冊に保管したものを後生大事にフィリピンに持ってきています。ヨシダにとっては人生の宝物とでも言いたいほどの記念すべき得難い資料です。


 2009年8月6日の「被爆64周年記念日」を前に、被爆者の一人として今までの誰もが発言したことのない「3つの視点」を基にした証言活動を展開することを企画しました。既存の関係組織団体とは一線を画したそれは「声なき声のヒバクシャ」を代弁するものです。


 ある意味では爆弾発言になる内容のものですが、英語の論文「My Testimony as an Atomic-bomb Survivor‾Based on Three Viewpoints」(約20頁)を書きあげました。関係者筋からの相当の反発を覚悟の上の証言ですが、海外に居を構えての活動を展開することを決意 しました。永年にわたってご縁を頂いている運送業界専門紙「物流Weekly」紙に大きく掲載された論文です。これで、本紙には3年連続で正月元旦号に掲 載されることになりました。なお、本記事右側にあしらっている英文欄は、本寄稿文で言及したフィリピン関係者に関する箇所を英訳したものです。




 

No.28

News

14/11/2012 16:22

FILIPINOS ARE RICH IN THE HEART EVEN IN POVERTY

By Japanese writer, and 1945 Hiroshima Bomb-survivor, YUUKI YOSHIDA    
It has...
Read more: http://calabarzonbreakingnews.webnode.com/
Create your own website for free: http://www.webnode.com

フィリピンに来て初めてこの国の全国紙にヨシダ記事が出ました。レギュラーライターに任命されたのですが、第一号を出版してから間もなく、「廃刊」になりました。なにか、経営陣の意見の違いから生じた出来事とかで、残念ですが止むを得ません。なお、この第一版のトップ記事に写真つきで紹介されたのがヨシダ記事です。題して  FILIPINOS ARE RICH IN THE HEART EVEN IN POVERTYですが、日本語では 「貧しくとも心は豊かなこの国のひとたち その根源を探る」です。いずれもクリックするとpdf で全文がお読みいただけます。

                                                                       No.29
                                    The Japan Times
Atomic bomb survivor credits desire to learn for living ‘four lives’

新聞や雑誌には百数十回にもわたる記事や論文が掲載報道されたヨシダですが、以下に収録するジャパンタイムズ紙の大きな記事は格別の喜びです。英字新聞最大手のジャパン・タイムズ紙に掲載されたのは始めてです。2012年8月4日はヒロシマ原爆記念日直前のことでした。大変に名誉ある記事掲載と受けとめる中で、幾つかのエピソードを記しておきます。そもそも、ジャパンタイムズ紙さんとの出会いは、ヨシダがメール交換している当時オランダ在住の日本人男性事業家の方との友人関係に端を発します。ヨシダのやっていることに関心を強められた同氏がジャパンタイムズ紙記者との接点を作ってくださったのです。Kris Kosakaんというアメリカ人女性記者が担当されたのですが、数十回に及ぶメール交換による取材になりました。最終段階でスカイプ電話でのインタビューをご希望になりながら、当方のパソコンが不調であったために替わって10項目に及ぶ「質問事項」を受け、1ページびっしりの回答書を送って事なきを得たものです。その内容に対して彼女の弁は"Fantastic!!!"でした。新聞雑誌には数え切れないほど頻繁に出たヨシダ記事や論文ですが、ジャパンタイムズ紙へのこの記事は一生の良き思い出足り得るでしょう。なお、ヘンな話ですが、取材を受けた当事者のヨシダ自身がその英語記事を日本語に翻訳したものを作っています。「被取材者の私が翻訳した日本語版」がそれです。クリックしてご覧ください。なお、記事中に出ている白黒写真は横浜TYMCA玄関前で一緒した3歳下の弟ですが、故人です。4年間の県外留学の諸経費全てを親代わりに私が負担してやりました。「兄ちゃん、ボクは女房を質に入れても兄ちゃんの面倒を看るからね・・・」とまで言ってくれた彼でしたが、先に逝きました。人の人生って分かりません・・・。 

The Japan Times


Yuuki Yoshida relaxes at his home in Santa Rosa, in the Laguna Province of the Philippines in January.

/

Atomic bomb survivor credits desire to learn for living ‘four lives’

Overcoming polio and family losses, Hiroshima native uses English in his quest for success

by Kris Kosaka

Special To The Japan Times

Yuuki Yoshida, 80, divides his lifetime into four different “lives,” but he has lived each of them by following one maxim: “Try to learn as if you were to live forever, and live as if you were to die tomorrow.”

As a survivor of the 1945 atomic bombing of Hiroshima, the manager of a prosperous trucking company, a business consultant and now, in his “fourth life” — living in the Philippines newly remarried and starting fresh again — Yoshida sees perpetual learning as the only way to live.

Born in 1931 in Hiroshima, Yoshida was a victim of polio that left one leg physically weakened. He could not walk until shortly before entering elementary school, and instead crawled along on his hands and knees, making his hands “tough and strong.”

He was always encouraged by his boisterous, five-sibling family and parents: “My mother was born in Hawaii and came to Japan when she was 11 years old. She always told me, ‘Polio-stricken people are great and clever by nature. Look at the American President Franklin Roosevelt. A person who is stricken with polio always turns out to be excellent.’ I was proud of that in my heart, even though it was taboo in those days to speak well of an American.”

The true uncertainty of life would crash down when he was 13 years old, working in a factory office because of his disability. Yoshida still remembers the day of “the pikadon” (atomic bombing) clearly: “I was completely buried under the debris in the darkness with breath-stopping dust and terrible smells. I could not move an inch. For a crippled boy, I was hopeless if placed in such a situation. For a moment and unconsciously, I came to hold my hands together to pray as if I were to die.”

Somehow, Yoshida found the will to crawl out from the debris: “If I were an ordinary boy, I could run to my home to face reality sooner. My world was always so small and narrow because of my difficulty in moving.”

Overwhelmed by the wounded and determined to find his family, Yoshida used a fallen rafter as a cane and hobbled out to the streets, thankfully meeting an older sister who reunited him with their father. Unable to locate the rest of the family, the father evacuated Yoshida and his sister to an aunt’s home 30 km from Hiroshima into the mountains before returning to search for survivors. His youngest brother died, but the remaining siblings and mother survived and made it to their aunt’s home.

Yoshida believes “the first stage of my life started with the atomic bomb,” but even earlier, his attitude had been shaped by his disability. He was always determined to make himself ever stronger: “My physical adversity itself is the very thing that made me avoid walking an easy way of life, always challenging myself with something not easy. Because of my father’s early death, I was obliged to work from the age of 14, so I had to give up any chance for higher education.”

After surviving the atomic bomb, his father died in an accident at a sawmill. As the oldest son, Yoshida accepted technical work at the same sawmill to support the family.

He also began to study engineering and work on his English, an interest from his school days, by reading English books aloud at night to his mother. “After the war, there came the age of the English conversation learning boom. My determination then was to become a much better English speaker than any university graduate. My mother helped me with pronunciation, and I learned intonation and pace by reading aloud so often.”

Yoshida won a Hiroshima speech contest and later published an essay in Japanese about the significance of this period in his life: “Studying English is my eternal self-education. I could say that all the reasons for my success throughout my life until this day comes from my passion for learning it.”

Working hard at his job at the sawmill, a technical position supporting the machinery, Yoshida found a way to use his English at work by studying various English magazines on lumber and the sawmill industry. He began corresponding with American lumber firms and successfully brought new welding techniques to Japan, adding his own innovations to improve the technology.

Impulsively, he sent an English essay detailing his innovation to an American lumber magazine, which then published his explanation and photograph, sending him a letter requesting a new article each month.

“During my active life as the inventor of devices and importer of new American techniques, I came to have a wide association with many businesspersons through my newly developed technologies throughout Japan — even though I had a hard time walking,” he recalls. “At the early age of 20, there came opportunities to make lectures from Hokkaido down to Okinawa. My youth was really colorful in a sense with a great dream, despite the hardship.”

But it was not Yoshida’s professional life that would bring about the change to his “second life.” He fell in love with his younger brother’s university classmate. Although her family hoped he would join their family registry because they had no sons of their own, Yoshida was determined to keep his own family name, and her family reluctantly agreed. Soon after marriage, however, his father-in-law suddenly died, and he had to leave his own prosperous career to take over the responsibilities of managing his small trucking company.

For more than three decades, Yoshida led the firm, expanding until it had seven subsidiaries and more than 100 employees. He and his wife raised three children, and Yoshida used his English skills to make contacts with trucking firms in the United States, studying various business practices and philosophies, including labor-management relations and the owner-operator system.

He also became a local PR chief for the volunteer organization The Lion’s Club, editing newsletters for its activities all over Hiroshima Prefecture and attending as many as 120 conferences and assemblies each year. “My motivation for joining Lion’s Club came from my simple belief that a businessperson must show his appreciation to the various people and communities that surround him.”

Meanwhile, his wife’s family continued to put increasing pressure on him to give up his surname and adopt his late father-in-law’s, an issue the family ultimately would fail to overcome.

At the age of 62, Yoshida entered his “third life,” stepping down from his position at the trucking firm to become a business consultant, traveling throughout Japan to give advice to various companies. His first act as a consultant was to contribute a 50,000-word article to a Japanese publication to advocate the owner-operator system as part of the deregulation of the trucking industry.

“My next challenge was another trip to the United States to research the owner-operator system, where it is widely used,” he recalls. “I secretly promised myself that I would try to be strong enough to walk without a cane in the States, although I would be there for a whole month. I began to practice walking in my neighborhood each morning, and for the first time in my life, walked 5 km without a cane.”

Yoshida had visited the U.S. once before in 1988, but now planned to stay a full month and go coast to coast. After successfully meeting that physical challenge and returning to Japan, Yoshida set up his logistics and management consulting firm. He was later invited to speak in Las Vegas at a management conference.

In June 2006, Yoshida attended a business lecture in Hiroshima that would lead to his current, “fourth stage” in life — retirement in the Philippines.

Yoshida said he had long “dreamed of retirement living abroad” and originally planned to retire in Malaysia. But the lecture given by a Philippine speaker and the impression it made on him changed his plans.

There was also a second reason — the massive loss of life, including civilians, that ensued from the Japanese invasion there in World War II — with the remains of large numbers of Filipino, Japanese and American soldiers “still left in the soil even now.”

After moving to the Philippines in February 2009, his new purpose in life emerged — to advocate nuclear disarmament and open communication around the world. He wrote an open letter to U.S. President Barack Obama last year, and operates a bilingual website detailing his life experiences and efforts toward disarmament.

As a lifelong learner, he also researches his new homeland. Yoshida plans to start a nonprofit organization to help his adopted country, and looks forward to new developments in life.

Never too old to dream, Yoshida says, “I hope to travel around the United States, making speeches in English as a citizen ambassador, trying to convey to the American people my thanks and my perspective as an atomic bomb survivor.”